八木雄二

まずわたしたちが思い起こさなければならないのは、経済を基盤とする暮らしの向上である。民族移動のあらしがすぎ、10世紀ごろから西ヨーロッパは平和的安定を享受することができるようになった。 。。。 修道院は同時に、さまざまなレベルでラテン語を基礎とするキリスト教文化、古典文学などに人々が接する機会をつくった。 。。。 文化と富が蓄積されるようになると、多くの若者たちが、反映する都市にあこがれて遊行するようになった。 インド・ヨーロッパ語族に根ざした文化をもつかれらは、ごく自然に哲学的論争にあこがれる。しかし修道院が伝えた教養としての哲学的知識は、アリストテレスの範疇論を中心とするものであった。したがって若者たちは自然にアリストテレスという異教徒の哲学へ接近した。 。。。 「哲学」はますます世間の注目を浴びるようになり、哲学やその他の学問(医学、法学)を学ぼうとする若者たちとそれを教える人間が、11世紀の末から12世紀にかけて学生と教授の間の組合組織をつくるようになる。こうして各地で世俗の学校(大学)が形成されるようになった。 他方、守勢に立たされたのは、それまで西ヨーロッパを指導してきたキリスト教会であり、その修道院であった。 。。。  キリスト教会や修道院は、若者の人気を失いはじめ、対抗上、信仰に「哲学」ないし「学問」を取り入れる道を選んだ。つまり信仰内容を哲学的に(学問的に)説明する道である。それが、。。。、11世紀後半から始まる「神学」形成の端緒である。 。。。 世俗大学の中で「神学」を取り入れたのは、13世紀の始まりにおいて、第一にパリ大学であった。つぎにオックスフォード大学であった。ケンブリッジ大学がそれにつづいた。どれもアルプスの北、西ヨーロッパでもイギリスとフランスに偏っていた。